私が「自分らしさ」や「本質」といったことにこだわるのは、そこを探求する過程を経て、周囲に惑わされることなく「自分を生きる」感覚を手に入たれからです。
私がわたしであるという感覚があると、毎日はこう変わる
私が願っていることは・・・
◯ 一人一人が自分を認める
◯ 惑わされることなく平常心でいられる
◯ 毎日を健やかに生きれる という人が一人でも増えて欲しいということです。
なぜなら、私も鬱を経験して自殺まで考えてしまった過去もありつつ、今は微塵も感じ取れないくらいになったのは、その厳しさを境に自分を受け入れることをトコトンやってきて変われたという実感があるからです。 その結果、誰にどう思われようと「私は私である」というブレない感覚を持ち続けられるようになりました。
「自分らしさを受け入れる」は自分を信頼してよいと許可を出せること
自分らしさを受け入れるとは、結局自分の強みと弱みの検証をすることになります。でも、言い換えれば強みと弱みは裏表であり同じ者なので、強みとして使えるように、自分の取扱説明書を自分で整えるような作業が心の中で進んで行くわけです。自分を信頼できるようになると、他人の評価は関係ない単なる意見になります。
例えば、私は仕事上、必要に思われることはけっこうハッキリ申し上げることもしています。人によってはドキッとしたり、耳障りが悪い場合もあるでしょう。なので、私の耳に届かなくても「キツいことを言う人だよね」という人もいるでしょうし、もっと遠巻きには私を嫌いな人もいるでしょう。 でも、それで問題はありません。地球上の全員から好かれるなんて所詮無理ですから。
自尊心は他人によって決まるものではない
「人に傷つけられた」という言い方をすることは珍しくないですが、自分が自分を認めるようになると、自分に愛を注ぐ感覚がわかるようになるので、他者から評価されないと存在価値がないと焦ることは大部分がなくなります。結果的に褒められ賞賛されることは、もちろん有り難いこととして喜びますが、それがないから自分に価値がないとは思わないですみます。
人にとやかく言われて自尊心が傷つくという人は、自分で自分の価値を見出していないので他者に評価されて褒められる自分が素敵だと思っています。つまり、逆に褒められないと自分の価値がなくなるので、意見を言われただけで自分への攻撃と受け取るようなメンタルの仕組みになってしまうのです。 自分に価値を見出している人は、他者の意見はあくまで意見であり、それに自分が共鳴するかしないかということを選ぶだけで、「傷つけられた」といった反応にはなりません。
当てにされる人生は、ずっと他者の評価に振り回される
他者に当てにされることは信頼されることとは違います。当てにされたいという感情は、相手のニーズに常に応えていなければいけないと、当てにしてくれる対象を気にしています。ニーズに応え続けなければ自分は必要なくなってしまうので、必要なはずだとあれやこれやと自分が存在することのアピールをし続けて、相手が何か不足している状況が保たれることを無意識で望みます。
一方、信頼されている人はその存在そのものに信頼があるので他者のニーズに関係ありません。何か頼まれたなら最善を尽くしますが、結果を出さないといけないと思わないし、出せれば結果として信頼が高まるのは有り難いと思っています。 自分を自分が認めることで本当の自尊心が生まれるのであり、他者の意見にぐらつく自尊心は、他者に当てにされる自分を自尊心と勘違いしている発展途上状態といえるでしょう。
人生は自分を満たすためにある
いつも他者のニーズを満たさなければと頑張る人生は疲れます。自分が自分を満たす人生は、自分を受け入れて自分を愛おしく思う気持ちを経て、他者の評価に振り回されない人生になります。
当てにされる人生の束縛から解放されて生きませんか? 自分をよく知る、理解する、受け入れることで自分の動かし方がわかり、ストレスが減っていくのです。 自分と向き合うことから逃げても、自尊心は高まることはありません。 さあ、自分を生きるために「自分らしさ」を愛していきましょう。
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