自分の心がどこまで健康で、どこからヤバいのかハッキリ解らないから面倒なことになるのではないでしょうか?
ウルトラマンのピコーン、ピコーンみたいに「もうまずいですよ~」というお知らせがあればいいのですが…。
心の健康をむしばむのは我慢しすぎの習慣
私も若い頃は「苦難にたえてこそ…」と信じていましたね。きっと戦争体験のある親に育てられ、学童疎開に話なども聴かされて育ってきたので、「今の世の中は幸せで、昔は食べるものもなかった」という苦労話から、自分はもっと我慢すべきだという思い込みをつくってきたがからでしょう。
でも、その我慢をどこまですればいいのかを誰かが教えてくれたわけではありません。
「もっと、もっと我慢しなければ…。甘っちょろいことをいてたら強い大人になれない!」
そう自分に言い聞かせて、私としては頑張っていたつもりでしたが、鬱になりました。自分の心がどこから不健康になるかがわからないから、限界を超えてしまっているのに、それにも気づかず突き進むことで何とかなると思い込んでいたわけです。
でも、自分を押し殺しても望んだ未来は遠くなる一方で、合わない抗うつ剤で苦しみました。あなたも我慢が美徳のように思い込んでいませんか?
カラーは自分の本来の心のあり方を教えてくれた
私が似合う色は柔らかくてぼやっとしている緩い色です。その色を着るようになっても生き方が緩い方向には変わっていないままの私が、「我慢は美徳」と育ってきた環境の中で培ってしまった勘違いを脱ぎ捨てるように色は誘っていたのです。
「そうか、色と同じ心を自分が受け入れれば、楽になれるのか…」
私は、我慢すれば強くなれると思っていました。でも無理に強くなることが私らしいことではないのだと、鬱のあげくに色が教えてくれていたのだと気づきました。色が私の心の在処(ありか)なのだと解った私は途方に暮れました。こんなに頑張ってきたのに、その想いが私を苦しめていた? 私が私を苦しめていた?
私が生き方を変えられるように、自分に還れるように、私は色に出会っていたんだ…。
頑なに無理矢理、自分を苦しめるような生き方をして自分を鍛えている気分になっていた自分に気づいて、疲れ果ててしまった気分になったのは確かです。休憩は罪悪と思っていましたから。
やりたいのにやれない・・・は、やりたくない本音が心の奥にるから
「本当は◯◯したいけど、そういうわけにはいかない。だってそのためには◯◯がないから。」
といったような言い訳をよく言っていませんか?
以前も言いましたが、やれるかやれないか…ではなく、やりたいか、やりたくないかだけの話です。
やりたければ、やれるように工夫していくものです。やれないのは、やってしまうとまずい理由があなたの中にあるからですが、それを直視するのも心地悪いので言い訳を用意します。
で、その場をやり過ごせているようでも、もっと未来に面倒な事態を招くことになっていきます。
ようは、痛み(違和感)は、ストレスになる前のかすり傷のようなものですから、この段階でかすり傷のできた理由を知ってしまえば、次に傷をつくらない通過の仕方がわかるのですが…。
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