前話と前々話で私がPTSDになり、10年以上桜が見上げられなかった暴露話を致しました。
これは、私が服と色を通して自分を知ることで、どんなひどい心境から変って来られたのかを具体的にお話した方が解りやすいと思ったからです。PTSDからその後うつになり3年投薬治療をする羽目になりました。
PTSDだけでは終わらない、心の闇は続いた
PTSDの概念はこのようなものです。
<命の安全が脅かされるような出来事(戦争、天災、事故、 犯罪、虐待など)によって強い精神的衝撃を受けることが原因で、著しい苦痛や、生活 機能の障害をもたらしているストレス障害である。>
町中で大きな声を聞くと震えが起きるようになりました。例えば、母親が怒って子どもを叱る声などを聞いても、それが大きな声だと、関係ない自分が震え出すのです。息子が生まれて9年、私は限界にきていた自分に気づいていなかったのですが、さすがにこの現象で自分がおかしいことに気づいたのです。
これがきっかけで離婚を決意して息子と逃げました。自分が壊れていることを自覚してしまったので、もう無理だと思ったので行動を起こしたのは良かったのですが、離婚調停もまったくはかどらず離婚裁判するしかないと調停員に勧められてすっかり疲労感が増した頃にはドップリうつになっていました。
PTSD、燃え尽き症候群、そしてうつ、次々に襲う病の悪夢
逃げて息子と2人の生活が始まり、身の危険を感じなくていい生活になった私は、緊張感が少し抜けたところで、どっと疲労感が来てしまったのです。そして矢継ぎ早に「経済難」という恐怖も襲ってきました。
PTSDの傷、そして燃え尽き症候群、更にうつと移行していき、医者に辿り着いたときは立派なうつ患者になっていました。うつに苦しみながらの離婚裁判は、嫌な昔の記憶を調書として文書に起こさなければならないので、傷口を再度開くようなはめになり、ますます憔悴する作業として私を苦しめました。
また離婚裁判は、申し立てた方が100万を支払わなければならないのです。暴力を働く人と別れるために、なんでお金がない私が100万も用立てなければ別れられないのか? 納得がいかなことだらけで苦しみました。
離婚判決、長い戦いの終戦のような気分
離婚裁判で離婚が決まると、離婚届がいらないということを区役所に届けに行って初めて知りました。
「国が離婚と決めたのですから、本人達の届けは要らないのです。」
役所の窓口で言われたこの言葉に、かなりの清々しさを感じました。自分の16年の及ぶ苦労の結果、もう止めていいんだよ!と他人様にきめて貰えたのは少なからず嬉しかったのは、自分が感じていた痛みや悲しみや怒りが正統であると判断されたからです。
しんどかったけど、戦いは終わった…。そう感じた瞬間でした。でも別の戦いがやってきました。そう、うつです。離婚が決まったくらいでうつは治りません。経済難も受けた心の傷も離婚判決くらいで癒えないからです。ここから自分の内面との真の戦い(本当は向き合い)が始まりました。
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