常々疑問に思っていることがあります。会社の中でも、学校でも、リーダーがいて部下や後輩を指導するというのは当たり前の場面ですよね。この時、厳しく指導したり、優しく指導したり、色々なリーダーの姿が浮かぶと思うのですが、いい指導者とは何を持ち合わせているのでしょうか?
「もうあの人に指導されたくない! だって無茶苦茶で何が何だか解らない!」
先日、そう嘆いている人をお見受けしました。どう考えても納得しない、理不尽、つじつまが合わない・・・など、指導している人の意見や内容がおかしいと思うことはよくありますね。このつじつまのおかしいリーダーがなぜこうなったのかと想像すると、この人も同じような圧力的な指導で抑圧されてきた経験があり、指導とはそういうものだというスタイルを憶えてしまったのだと思います。
嘆いている人の話を聴くと、この理不尽なリーダーからは指導というよりむしろ混乱させられるばかりで、更に上の指導者に突っ込まれると途端に知らんぷりしたそうです。こうなると指導ではなく嫌がらせなのですが、チンプンカンプンなリーダーは、ちゃんとやっているつもりで自分のおかしい所に気づかのだと思います。
アドバイス、指導、育み、教育が叱責や憤慨とイコールになって混濁している次元の低いリーダー
●アドバイスはいわゆる助言ですので、「~といった考え方も出来ますね」などの、
それとなく教えるゆるい導きですね。これは余裕があり、比較的対象者と距離を
持てている関係で発揮されるでしょう。
●指導は、技術や知識を伝達し習得させるために教え導くので、目的地点が明確な
ケースです。教える人と教えれる人の立場がハッキリしているでしょう。
●育みは、長い目で見た成長を願う状態で、大切に守り育てる親のような愛情が
リーダー側にあるのが特徴です。個人的に距離が近い信頼のある関係が多いでしょう。
●教育は、社会生活に適応するための知識・教養・技能などが身につくように教え
育てることですから、社会人としての大きな枠組みがある設定です。仕組みとして
教えていく体制全体を指していることが多いでしょう。
先ほどの例は、「指導」において、実力が無い人が常識的な感覚の人に立場を利用して圧力を掛けようとしたことで起こってしまった、「残念な指導になっていない」場面の話ですね。 教える側に、愛情がないのがそもそもの問題の根っこです。よく古株が新人に仕事を教える場面がありますが、それを指示する上長が、愛を持って接することができる先輩かどうかを見極めた上で担当させる配慮がないと、上手くいかないのはあたりまえです。
厳しい指導も2つに分かれる
① ビシビシ・ガンガンの君臨系
いじめられて育った人は、次にいじめる人を捜し、いやみったらしく教えることが教育のスタイルだと勘違いしてしまいまが、それしか見ていないとそれがリーダーの指導だと思っている、あるいはリーダー側にさして自信が無いとき、虚勢をはって威張ってみいせるしかないと思い込む場合もあるでしょう。中身が伴っていれば効果がありますが、中身がない場合はチームの一体感は得られたものではありませんね。
② 厳しさの中にあるホッとしたぬくもりと労りの心
厳しいけど優しい人は、「ああ、なるほど」という納得を与えてくれるので、厳しくても気になりません。納得を出来るところまで親身に教えてくれていると受け手も思うので、ついて行こうと思います。単なるアメとムチではなく、底辺に育てる愛情がないとこの空気感はでないでしょう。
最後に愛は勝つ? 愛の中にある、慈しみ、思いやり、労り、感謝・・・などが言葉や行動ににじみ出るか
もちろん、愛は勝ち負けではありませんが、人は愛のある方が好きだし、惹かれるし、すさまないし、ほっこりするし、安心して穏やかになれますよね。それを選べない人は、選べないだけのネガティブな問題を抱えて戦っている人なのです。それが悪いとも思いません。その時期なのでしょうが、一生そこにいたら苦しいから変ろうとするはずです。
愛というエネルギーの中に慈しみや思いやり、労り、感謝などは、人を包み込む力があります。だから、このエネルギーを感じたとき、人は成長したいと思うのです。誰かに何かを教える立場に立つなら、「自分が出せる愛情って何だろう?」と考えてみるといいと思います。そうすれば、つまらない憂さ晴らしのような「嘘つき指導」など、したくもない気持ちになるはずですから。
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